1983年9月8日の初代カニの家

 

画像著作権:写真提供者様

 

写真は1983年、私がはじめて北海道を訪れた時のものです。しばらく忘れていましたが、今回HPを見せて頂いたおかげで、再び取り出しました。全国様々なところから旅に出ている人がいるものだと改めて感心しつつ、ヘルメットやブーツが無くなった人がいたりと少々油断ならない感じもありました。中央で舌を出しているのが私です。またがっているのは、同郷(偶然会った)の方のXT500です。多分、一泊だけだったと思いますが、翌朝に一人でラーメンを作って食べていたら、腹をすかせた皆にうらまれた?覚えもあります。

写真を撮ってくれたのは、当時さんのうでやとわれマスター?をしていた方かもしれません(岡山さんでしょうか?)数年前、登山のため帯広を訪れた際に、テントが跡形なく消えていることを知り、残念でしたが、形を変えて続いていたのですね。これからも頑張ってください。

 

コメント:写真提供者様

 

 

 

上掲画像に対する読者コメント 

投稿者:坂本さん
投稿日:2008年09月08日

カニの家のホームページをいつも懐かしく拝見しております。
私が学生時代、北海道ワイド周遊券とヒッチハイクで北海道を旅したのは、1983〜1985年の頃です。
青い縦長のアタックザックに寝袋・コッフェル・とらべるまんの北海道を詰め込んで、一回の旅で一ヶ月近くの期間を、駅の待合室や公園のベンチで野宿する生活をしていました。

帯広駅前の薄汚れた日通倉庫の角を右に折れると、「あの」カニの家がありましたね。北海道旅行中は何度もお世話になったものです。裸電球が点った畳敷きのモスグリーンのテントは、当時としても特異な空間で、普通の「旅行者」は絶対近づいてこない場所でした。
しかし、年長の「主」が治める一定のルールの元に過す分には、大変居心地の良い、旅人密度の濃い場所でもありました。当時の「主」は"1983年9月8日の初代カニの家"の写真に写っている「酋長」氏です。この写真の「酋長」氏は私の記憶の中の格好そのまんま。黒い長袖TシャツによれたGパン、スニーカー。写真からは分かりませんが、彼はこの格好を何週間もしている上に風呂に入らないので大変臭いのです。その独特の臭いも思い出しました。

その「酋長」氏のギターに合わせて吉田拓郎の「洛陽」を宿泊者全員で歌ったこと、各々が自己紹介をして見知らぬ同士が旅の情報を交換し、また再会を約して出発していく情景など、この写真を見ているとあの濃い時間を思い出します。

私はこの写真を写している時、恐らく背景のテントの中で出発のパッキングをしています。この日は珍しく車で来た宿泊者がいたので印象に残っているのです。何人か見覚えのある人もいます。当時は写真のフィルム代も節約して貧乏旅行しておりましたので、実家のアルバムを見てもカニの家の写真は一枚もないのですが、自分が過したまさにその時の写真を掲載して頂き、感無量です。ありがとうございました。

私は、さんのうで雇われマスターをしてカニの家を手伝っている方(名前を失念してしまいました)と親しくなり、冬の北海道の旅ではその方の家に数日間ご厄介になりました。帯広市内に借りている木造家屋に泊めてもらい、厳冬の北海道で崩した体調を直すことが出来ました。
その方は冬はミスタードーナツでアルバイトしていて、よくお土産にドーナツを持ってきてくれました。その次の夏、その方が沖縄まで徒歩とヒッチハイクで日本縦断の途中、東京を通過する際に私の実家に泊まってもらうことになったのですが、鍋も含めた大荷物とともに現れた本人から「酋長」氏を強烈にしたような臭いが発散されていて私の家族が一様に押し黙ってしまったのも、今では良い想い出です。

JRが合理化でローカル線を廃止し、若者が安価に冒険できるインフラは無くなってしまいましたが、カニの家は駅から遠いものの随分と立派になり、また当時と別の旅人が集っているようですね。
今年の写真も楽しみにしております。

帯広市民の記憶からも薄れつつあるとの記述をHPで拝見しましたが、あの時代の、あの場所のことは、私はずっと忘れることは無いと思います。私の記憶の中の帯広は、横に長い茶色のステーションビル、ロータリーの右手に赤い「通」マークの薄れ掛けた日通の寂れた倉庫、そこを右に回り込むと見える2階の張り出した喫茶店と、向かいの広場にカニの家がある場所なのです。

それでは、これからもカニの家OB会様のHP充実を願っております。

 

1983年当時の旅のスタイル、様子 

投稿者:坂本さん
投稿日:2008年09月15日

198385年ごろの北海道の思い出】

 

@1983年夏の出来事:

 

朝、礼文島から稚内へ向かう連絡船の中で「おしん」を放映していました。さらに続く朝のニュースでは「昨日、大韓航空機がサハリン上空でソ連軍に撃墜されました」と伝えられて、それ聞いた皆は仰天。おいおい目と鼻の先じゃないか!

その後しばらくの間、オホーツク沿いの海岸に死体や遺留品が流れ着いているという物騒な噂が流れました。

 

 

 

A当時の北海道の旅とカニの家について:

 

当時の北海道には国鉄の赤字路線がまだ元気に運行されていて、旅の友である「北海道ワイド周遊券」(東京発20日間25280円=学割)で大抵の場所へ足を伸ばせました。20日間の期限が近づくと、期限を残して帰る人の周遊券と交換して旅を続けました。

 

「とらべるまんの北海道」という北海道フリークによるオフセット印刷の手作りガイドブックが評判になっており、リュックにそれを突っ込んで旅をしたものです。記事から地図まで全部手書きで、北海道の旅への思いにあふれる最高に面白い本でした。

 

ユースホステル(以下YH)は一頃に比べると利用者は減っていましたが、まだまだ北海道旅行の宿泊施設として主役の座にありました。しかし、皆で歌を歌うミーティングなどが敬遠され始めていたのも事実です。そのような状況下で、元旅人が開設した個性を売り物にした宿が、サロベツ原野や落石などのとんでもなく辺鄙な場所に点在して人気を集めていました。旅人宿・とほ宿という呼び名はまだありませんでした。当時は「とほ」が創刊された頃ではないでしょうか。少数の宿が共同で顧客獲得のために作ったA5版のミニ情報誌といった風情で、喫茶店などで無料で配られてました。

 

「カニの家」はその当時としてもかなり特異な場所です。まず当時、公に認められた無料宿泊施設というのは他に聞いたことがありません。それなのにヘルパーが居ます。主もいます。監督者として地元民の「さんのう」のマスターが居ます。酒も飲んではいけません。普段どこまで有効に機能しているかは別にして、宿泊者から見た運営形態としてはユースホステルに近いのです。ただ、あの寂れた日通倉庫の裏に建つ緑色のテントと長期連泊者の風貌を見ると、一般の旅行者はまず近づいてきません。「カニの家」の宿泊者はこの心理的ハードルを越えてきた連中です。一見普通の人でも、心の敷居が低い=少々変わった事柄と人間に対する許容度が大きいのです。そんな場所だから初対面同士でも、以前からの仲間のような付き合いが出来たのだと思います。

「カニの家」は、駅の待合室や屋外で寝てばかりいて、ユースもたまにしか泊まらない、いつも食べているのはAコープで100円で売ってるサンマの蒲焼缶詰という、ハードな生活を強いられている旅人には本当に心強い場所でした。帯広へ来れば、自分を予約の有無に関係なく受け入れてくれる雨が当らない場所があり、自分の「同類」が居るというのは、一人旅をしている貧乏学生には本当にありがたいことだったのです。

 

これは夕暮れ時に小さい駅の待合室に泊まる交渉をしてすげなく断られたり、風邪を引いて熱があるのに軒先から垂れて来る雨で寝袋を濡らした経験が無いと本当の意味は分からないと思います。

 

 

 

Bその頃の「旅人達」についての知識:

 

リーダー()の役割について:

当時は「カニの家」をはじめとする旅人の溜まり場には、大抵年長者が務めるリーダー(または主=ぬし)がおりまして、その場のルールを新参者に教えるようになっておりました。特に気にしていたのは一般観光客との衝突です。彼らは自分が惹きつけられた観光地に吹き溜まっているのですから一般観光客との衝突を起こした場合、最終的には観光で生計を立てている地元民との衝突に至り、穏健な旅人も含めてみんな排除されてしまいます。やはりそれなりの節度を守っていなければ自由は謳歌できないのです。当時のリーダー(あるいは主)は地元民、観光客、通りすがりの旅人の調整役として存在していました。

 

 

連泊者について:

居心地の良いYHや旅人宿には、大抵長期連泊者やそのグループが存在しました。大きく分けて目的型と滞留型に分類できます。

 

前者は明確な目的を持って長期連泊しているタイプで、流氷接岸時期の知床ユースにやって来ていた人達がこれにあたります。隔離された連泊部屋に居て他の宿泊者と明確に区別されています。他の宿泊客とあまり交渉を持たず、宿の中では目立たないようにしています。連泊者同士が一緒に行動することもありますが、個人で勝手に日々過ごしていることがほとんどです。年齢層は比較的高い傾向があります。

構成員に社会人が多いことも一因かと思いますが、普段勝手に過ごしていても、宿のツアーでトラブルが起こったときなどに率先して状況判断に務め、組織的にサポートしたりします。

 

後者は宿の雰囲気や既存の連泊者に引きずられて仲間になってしまうタイプで、宿全体が共同体と言うか罠の様な体を示しています。大規模施設ではキチガイユースで見られますが、どちらかというと小規模な旅人宿で生じやすいコミュニティです。仲間を作りたがるため、既存の連泊者は優柔不断な宿泊者を常に物色しており、集団行動を好みます。年齢層は比較的低く、学生が中心です。当時の北海道で長期連泊者というと、ほとんどはこのタイプを指します。「カニの家」のコミュニティもどちらかといえばこちらに分類されます。

 

どちらも自分の泊まっている宿が大好きなのは共通しているので、宿に迷惑のかかる行為は自主的に慎む傾向がありますが、後者を一般の旅行者が敬遠して結果的に宿の悪評が立つこともままあります。その辺の呼吸が分かった年長者またはヘルパーが居ると、これがリーダーあるいは主(ぬし)になりコミュニティと宿の評判が安定します。

 

 

旅先の仲間について:

連泊グループに限らず、宿でたまたま知り合った同士でも、列車で同じボックス席になった同士でも、連泊者同士のようなコミュニティは生じます。このコミュニティが押しつげがましくない状態で旅人と同調したとき、彼らは生活圏を遥かに離れた場所における仲間となります。つまりたまたまその場に居合わせた全くの他人でありながら一緒に行動し、体験を共有できる仲間です。当時の北海道にはそれがごく自然に作れる空気があったんですね。

その雰囲気を作るのに大きな役割を果たしていたのは、YHや旅人宿(含む「カニの家」)、国鉄の北海道ワイド周遊券です。当時の若者の共通宿泊施設としてのYHや旅人宿、共通移動手段としての列車は、自分達は同じ立場の仲間であるという意識を醸造し、そのコミュニティ発生を促すためのインフラとして強力に機能していたのです。

男女を問わず、日常生活では絶対遭わない他人と仲間意識を持ち、気軽に言葉を交わせるというのは、大変面白い経験でした。

 

このような背景と感覚を理解できれば、当時の若者を魅了した北海道の旅の楽しさが良く解るのではないかと思います。

 

 

 

C旅人の種別と特徴

 

カニ族:

正しい起源は、横幅のあるキスリングを背負った旅人が列車の中や改札をカニ歩きする様を指すものと思われます。正直に言えば1983年当時では余り使われなくなっていた言葉です。何故なら当時の旅人は縦長のアタックザックを背負っていて、列車の中でも改札でもきちんと前を向いて歩いていたからです。

しかしザックを背負った旅人の総称として使われることもあり、その際は先述の起源を聞いて「そういう呼び方があるのだな」と思っていました。バックパッカーという呼び名はまだ定着しておらず、何故か外枠型のフレームザックを背負った人をバックパッカーと呼んでいました。

カニ族は自前の移動手段を持っていません。またお金が無いので寝袋を常備しており、乗り物の待合室や展望台とかの夜露をしのげる場所で寝ています。移動手段や宿泊場所などの制約を受けない点で旅行中の自由度が大変高いのですが、下手をすると社会からドロップアウトする確立が最も高い旅行形態です。

 

ライダー:

1983年当時はバイクで移動する旅行者に対して「ミツバチ族」という言葉が使われ始めた頃で、まだ一般的には「ライダー」と呼ばれていました。北海道ではダートコースを走ることが多かったのでオフロード車に乗っている人も多かったように思います。当時スズキからKATANAというバイクが発売されてカッコのよさから人気を集めていました。

彼らは対向する仲間に会ったとき人差し指と中指を伸ばした左手を胸に「サッ」と斜めにあてがい、お互いに挨拶する習慣でした。私は駅寝やYHで知り合った「ライダー」の旅行者からこれを聞いていて、道を歩いていて前からバイクがやってくると同じようにサインを出して挨拶していました。それを見ると「ライダー」連中も必ずサインを返してくれます。両側が牧場になっているオホーツク沿いの真っ直ぐな国道をこんな風に歩いていると、北海道を旅しているという実感をひしひしと感じました。

お互い旅人という意識がとても強かったですね。調子悪そうにして休んでいるライダーに薬を分けたり、こちらが近くの駅まで後ろに乗せてもらったり、いろいろありましたね。

 

チャリンカー(自転車旅行者):

現在はマウンテンバイクに代表されるストレートハンドルの妙にゴツイ自転車が主流ですが、1983年当時の自転車旅行といえばドロップハンドルのランドナーが主役でした。この自転車は、頑丈そうな溶接三角フレームに幅広のタイヤ、前後のホイールの左右に荷物を入れるキャンバス地のサイドバックが付き、後ろの幅広のキャリアには寝袋・テント・丸めたウレタンシートをくくりつけて長距離を移動します。日焼けでぼろくなった地図が、ドロップハンドルの湾曲部分の間に挟まれるように設置された箱型バックの上面透明カバーに差し込んであります。乗っている本人の格好はというと、野球帽のような帽子かバンダナ、そして指が出る皮の手袋をしています。上半身に着ているものは適当ですが、下半身は伸縮性の無い短パンです。

1970年代の週刊少年キング(既に廃刊)には「サイクル野郎」という漫画が連載されておりまして、これは家業が自転車屋の高校生がドロップハンドルのランドナーで日本一週するストーリーでした。これを読んでいる当時の青少年は「旅行する自転車といえばこの形」と頭に刷り込まれていたのです。

ブリジストン自転車が「ロードマン」というブランドで発売したスポーツタイプの簡易版自転車もドロップハンドルで大ヒット商品になりましたね。

北海道のチャリンカーは、数としては少ないものの確実に若者旅行者の一角を占めていました。

 

ヒッチハイカー:

私は、北海道ワイド周遊券とヒッチハイクで旅をしていました。純粋なヒッチハイカーというのはあまり居なくて、私のように周遊券と併用していた人がほとんどだったように思います。旅行者の中に占める数は一番少なかったですね。北海道は比較的ヒッチハイクに理解のある土地でしたので移動の手段に使うことが出来ましたが、1985年九州を旅したときは車が停まってくれなくて大変難儀しました。

ヒッチハイクというとダンボールに行き先を書いて道端に立っているというイメージですが、実際にはダンボールは使いません。余計ドライバーが警戒します。

ヒッチハイカーの共通認識として、白いセダンに乗っている人は停まってくれる確立が高いです。白いセダンが来ると気合が入ります。

200メートルほど続く見通しの良い直線道路の路肩に立ち、親指立てた右手を上に伸ばしてぐるぐる回しながら、フロントグラスの向こうのドライバーの目に語りかけます。後半が大事です。「乗せてください。僕は人畜無害です。話し相手に丁度いいですよ。」ということを目で訴えないと相手は乗せてくれません。見ず知らずの人間を助手席に乗せるわけですから、ドライバーだって怖いのです。

車が停まったら荷物を背負って、全速力で車のほうに走ります。停まってくれたドライバーを待たせられませんし、ちんたら歩いてるうちに気を変えられたら大変です。乗ったら直ぐに乗せてもらったお礼を述べて行きたい場所を告げます。運がよければ目的地まで、そうでなければ途中のどこかの曲がり角まで乗せてもらえます。

当時は助手席のシートベルト規制はありませんでしたが、走り出す前にシートベルトを締めます。

以前、親切で乗せてあげたドライバーがヒッチハイカーとともに事故に遭った後、大怪我したヒッチハイカーから訴えられて多額の賠償金を支払わされた事例があったそうで、その際の争点が「シートベルトをさせなかったこと」だったと聞きました。シートベルトを締めるのは、事故への用心と、乗せてくれたドライバーに対する礼儀でした。

足寄から帯広まで乗せてくれた50代のおじさんが、寄り道して音更町の花時計に寄ってくれたり、池田町ワイン城でバーベキューを食べさせてくれたことがありました。何でこんなに親切にしてくれるのか理由を聞いたら「昔、自分も若い頃に旅先で親切にされたから」とのお答えでした。そして「君も年をとったら同じようにしてあげればいいんだよ」と。

あれから20年以上経って、自分が後の世代に受け渡せるものは何なのだろうかと考えることがあります。

私はまだ、あの頃うけた親切を社会に還元できていません。反省することしきりです。

 

鉄道マニア:

鉄道をこよなく愛する旅行者で、20日間の周遊券利用期間で盲腸線まで乗り倒そうと考え、事前に立てた行動計画に則って旅行しています。ワイド周遊券に押された「下車印」は大切な旅の記録ですから、周遊券の利用期限が近づいても、期限に余裕のある人と取り替えたりしません。また、国鉄の定めた規則の中で工夫して旅をするというのが、正当な「鉄道マニア」として当然のこととされているようでした。

当時は「チャレンジ2万キロ」という鉄道乗車キャンペーンがあって、始点と終点の写真があるとその路線に乗ったことの証明書をくれたように記憶しています。駅のホームで三脚とタイマーを使って、駅名表示板と一緒に写真をとっている姿がよく見られました。「鉄ちゃん」「鉄道オタク」という呼び名はまだありません。なお、当時の「マニア」とは一定の節度を持って1つの趣味にのめり込んでいる人を指しており、肯定的な言葉です。

 

リヤカー旅行者:

北海道を旅していると、必ず耳にしたのがこの噂です。リヤカーを引いて北海道を旅している旅行者が居るという目撃情報です。ホントかいなと思うのですが、この話の不思議なところは、こちらの旅程が進んで日にちが経つごとに、耳に入るリヤカーの目撃位置も移動していることです。感覚的にはひと夏に2〜3名が同時にリヤカー引いて北海道を旅しているようでした。

十勝のミニコミ誌編集部で、実物がつい先日までここに居た、という証言を写真と一緒に聞いたこともありますので、都市伝説ではありません。

他に変わった移動手段の旅行者といえば、スーパーカブやラッタッタのスクーターで北海道を周っているツワモノも居て、実際に霧多布で出会ったことがあります。話を聞いたところ、高低差のある場所(例:美幌峠)の移動は大変で、大体は一回の旅行(一ヶ月ぐらい)でバイクは壊れてしまうという事でした。

 

一般旅行者:

主に鉄道とバスで移動しており、ローカル線に乗ることにはこだわらず、また命の危険があるところには意識的に踏み込まず、普通にYHなどの宿に泊まっている人たちです。北海道ワイド周遊券を期限まで使い切ることはなく、交換にも快く応じてくれます。特に異性の一般旅行者は一緒に行動していると大変楽しいのですが、経済観念の違いから袂を分かつ場面も生じます。

 

バスツアーの人たち:

荷物を背負って長距離を歩いて辿り着いた目的地で思索に耽っているところへ、揃いのバッジを胸に付けて高波のようにやってきて騒音を撒き散らしながら写真を撮り、非常に短い時間で去っていきます。彼らが乗ってきた光り輝くバスのフロントグラスには「道南〜道北〜道東3日間の旅」などと書かれたボードが掲げられており、その時間感覚の違いに驚かされます。彼らは阿寒湖の近くに広がる温泉地帯のホテルに大量に宿泊しており、お土産を大量に購入しますが、アイヌコタンで購入する小さい木彫りのほとんどが長期旅行者の冬季アルバイトの成果であることは知りません。

 

 

 

D各地の様子

 

上野駅:

まだ夜行急行が全国に走っています。当時はまだ上野駅に東北新幹線が乗り入れておらず、現在は地下鉄ホームのような1317番線はスレート葺きの屋根の間から夜空が見えます。14番線から19時過ぎに出発する青森行きの夜行急行八甲田には、普通の旅行者に混じって北海道旅行に旅立つ同年代の旅行者がザックを担いで乗って来ます。ボックス席に陣取って荷物を網棚に上げて文庫本を読んでいると、間もなく車窓の風景が動き出します。北海道への旅の始まりです。

 

青森〜函館:

6時過ぎに青森に到着すると青函連絡船の出発時刻まで1時間ほど余裕があります。一旦外へ出て青森駅前市場で海苔巻きなどのお弁当を購入してから駅へ戻り、連絡船待合室へ上って乗船名簿を記入します。ワイド周遊券は青函連絡船の乗船券も兼ねています。出航したら毛布を確保して、カーペット敷の二等船室でお弁当を食べてから一眠りします。これから4時間の船旅です。

船の食堂の「海峡ラーメン」が名物ですが、高価だからと食べないでいるうちに連絡線が廃止されてしまいました。

津軽海峡を渡り、函館山が近づいてくると北海道旅行の始まりを実感しました。函館市場でうに丼・いくら丼を食べるのが定番でした。函館市場は当時から観光客向けになっていましたが、現在ほど観光客ずれはしていなかったと思います。

※現在、お台場「船の科学館」に展示されている羊蹄丸の中でロウ細工の海峡ラーメンを見ることが出来ます。

 

小樽:

北一硝子が蔵を改造した展示館兼喫茶室を作ってすぐの頃です。

街中にアールデコ調の古い建物がたくさん残っていて、ステンドグラスの意匠がきれいでした。当時としても老朽化した建物が多かったのですが、まだ残っているのでしょうか。

すし屋が名物になりつつありましたね。行ったことないですけど。

 

札幌:

札幌駅は大通り公園側から駅に向かって左手の軒先がちょうどよい塩梅に夜露をしのげる様になっていて、夜はバイクや自転車とともに色とりどりの寝袋とザックが何十も並んでいました。旅行者同士の情報交換も盛んでしたし、駅の警備のおじさんも巡回してくれていて、安心できる駅前野宿ポイントでした。

 

帯広:

「カニの家」の位置やロケーション情報はこちらのHPに詳しいので割愛します。当時の帯広の銭湯は「カニの家」と同じ駅表にあるのですが、コインランドリーは駅の反対側まで行った覚えがあります。木の杭と針金で仕切られた道を歩いていきます。道の両側は空き地になっていました。駅の反対側はやたらと空き地が目立ち、切り出した材木を積み上げた集積所もありました。

この頃の帯広は然別湖など大雪山系方面へ向かう士幌線に乗るための起点でもあります。

駅に近い大通りに面してミスタードーナツがありました。六花亭は有名でしたが本店は意外とこじんまりした店でした。今も変わらないのでしょうか。

 

然別湖・東雲湖:

然別湖近くの東雲湖(しののめこ)も「とらべるまんの北海道」で取り上げられていた場所ですね。然別湖YHは然別湖ホテルと併設されていて、ホテル利用者とYH利用者とで待遇に大きな違いがありました。もちろん後者が下なのですが。

東雲湖対岸には1日2回の渡し舟が出ていて、対岸に渡って2回目を逃すと徒歩で湖半周の旅がもれなく付いてきます。この対岸には鳴きウサギの生息地がありまして、彼らの巣がある岩場に静かに座っていると、たまに顔を出して鳴きます。彼らは警戒心が強いので息を殺して待った記憶があります。

 

富良野:

テレビドラマの「北の国から」の舞台になった麓郷(ろくごう)地区にはドラマに使用した撮影セットの黒板五郎の家が、裏の泉と一緒にそのまま隠れた観光名所になっていました。周辺整備に全然金をかけてなくて、もうそのまんま。

その後、開けた場所にログハウスが大量に併設されて情緒も何も無くなってしまったのですが、当時は管理人さん(女性)もお客も、窓から入る日差しで日向ぼっこしてお茶を飲んでいるようなのどかな場所でした。

 

美瑛・美馬牛:

なだらかな丘陵地帯に色とりどりの畑が広がるこの地域。現在はコンクリで固めた場所にお土産屋が立ち並んでいると聞いておりますが、当時の道はダートばかりで、レンタルのスーパーカブで走り回るとハンドル取られてスリル満点で景色は最高。マイルドセブンの木なんて、どれがその木だか分からない状態で、唯の防風林の一部でした。良い風景が沢山ありました。ラベンダー畑以外は観光客よりお百姓さんの人口密度が高くて、すがすがしい農村地帯でしたね。

 

オホーツク海沿い:

当時は国鉄が稚内からオホーツク海沿いに興浜北線を運行してまして、朱色の短い編成の気動車で夏のオホーツク海と原生花園と湿地帯の風景を満喫できました。稚内から網走、斜里、知床方面へ抜けるにはこのルートが一般的だったのですね。また、冬の車窓の風景はなんともいえない寂寥感がありました。当時は行き易さから人気のあった地域です。浜頓別YHも人気の高いYHでした。

 

サロマ湖:

食い意地の張った私は「船長の家」に宿泊。この宿は食事の内容が良いと評判でした。情緒を求める人は「さろまにあん」に行きました。冬はスノーモービルやパラセーリング(パラシュートを背負って、凍った湖上をモービルに引っ張ってもらって空中散歩)で遊んでいました。両方で一回千円ぐらいだったかな。

 

斜里:

斜里YHが有名でしたが、私は「おやじの家」という宿に泊まっていました。駅前で宿泊交渉をした宿の元気なかあさんが、元岩尾別YHの名物ペアレントだったことを知るのはずっと後の話です。年頃の3人の娘さんが居て宿の仕事を手伝っていて、夕食はジンギスカンが食べ放題でした。木造家屋の宿から少し歩くと斜里の海岸があって埋め立て地には工場が見え、いかにも北海道の海辺の町と言った風情でした。

常連客が「大変美味しいのでお土産にするべし」と何も知らない宿泊者に、斜里駅のKIOSKへ「ヘッペの缶詰」を買いに行かせる話は笑いましたね。

 

知床:

ウトロには、現在は「夕陽のあたる家」となっている宿の前身、「知床ユースホステル」がありました。当時からユースホステル人口の減少は一部のペアレントの間で真剣に問題視されていて、業態転換が検討されていました。「夕陽のあたる家」は数少ない成功例だと思います。

当時の知床ユースホステルは、冬になると宿泊棟の奥に「隔離部屋」という一種変わった空間が出現しました。

「隔離部屋」は夏にもあるのかもしれませんが、私が知っているのは流氷目当てにやって来る常連連泊者達の根城です。一週間二週間の連泊は当たり前で、中には1〜2ヶ月滞在するツワモノもいました。彼らに共通するのは冬の知床の強烈な自然と流氷が大好きなことで、プータローから社会人、プロカメラマンの人まで居りました。私も縁あって短い期間一緒に過ごしましたが、あの空気が懐かしいですね。

 

根室:

納沙布岬の「望郷の家」の外付けスピーカーからは「望郷の歌」の「帰りたぁーいなぁぁぁー!!!」という北方領土引揚者の気持ちを直球ストレートに表した歌詞が絶え間なく流れ、備え付けの望遠鏡には水晶島の手前を遊弋する「ソ連」の濃灰色の巡視船が浮かんでいるのが見えます。当時の「ソ連」は融和ムードの欠片も見られない、永遠に存続すると思われていた超強気な共産国家で、巡視船はその象徴。何年か前にベレンコ中尉も亡命してきましたし、つい先日はサハリン沖で大韓航空機も撃墜されました。そんなソ連が目の前に見えます。今で言うと尖閣諸島を望遠鏡でのぞける距離にいる感覚でしょうか。ここはもう完全な別世界です。花咲ガニは高価だったので食べたことありません。

 

鶴居村(釧路湿原):

渡部さんというおばあちゃんが丹頂鶴に毎朝餌をあげていまして、近くの「丹頂の宿」という民宿に泊まって冬の早朝に見に行ったものです。現在は渡部さんの元気な姿を鶴居村のHPで拝見することができます。

 

開陽台:

中標津から近いこの場所は、360度の地平線が見える場所として「とらべるまんの北海道」で取り上げられて、当時は知る人ぞ知る場所といった風情でした。周りが草原や畑の真ん中の丘陵地の頂上にぽつんと小さい展望台があるだけ。引き戸がついた八角形の建物で、外の階段から屋根の上の展望台に上がります。

19838月当時の開陽台は展望台を根城にする「展望台派」とテントを根城にする「テント派」に其々リーダーが居て、お互いの居心地のよさを主張して張り合っているというなんとも不思議な場所でした。私は訪問時、テントを持っていませんでしたので、展望台に赴いて宿泊したい旨を伝えると、夕方になって観光客が来なくなったら自分の場所を確保するように言われました。そして、それまで荷物は邪魔にならない場所に置くように、とも言われました。数ヶ月連泊していた「展望台派」リーダーはつい先ごろリーダーを卒業したとかで、新しい中心メンバーからはのんびりした空気が漂っていました。

「展望台派」が一般客に気を使っているように、「テント派」も展望台の近くに大量に張っていたテントを、地元の人たちからの意見で展望台からやや離れた場所に張りなおした直後だったと記憶しています。

星の無い夜は、やや離れた下のほうのテントの明かり以外、全くの闇夜。

連泊者が展望台の真っ暗な窓を指差しながら、そこに苦しそうな人の顔が映ることがある、なんて話を女の子を怖がらせようとまことしやかに登山用ローソクの元で語り、また他の旅行者からは「リヤカーで日本一週している奴を根室に近いどこそこで見た」なんて怪しい情報が飛び交います。夜11時頃に消灯、就寝となります。

早朝、朝日を見に展望台の上に上がります。朝の肌寒い風の吹くなか、北方領土も見える水平線から太陽が昇る様を望みます。連泊者も早朝から起きて展望台の上から日の出を見ています。これが一日の始まりであり、ほぼ全員参加のイベントなのです。私は1泊でここを去りましたが、こういう時間の過ごし方も良いなと思いました。

 

当時の開陽台  画像著作権:http://19580805.cocolog-nifty.com/blog/ より

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