私が友と北海道に出掛けたのは88年の事だった。その頃は当時ブームだった「バイクに乗ったら北海道を走る」というバイク乗りの合い言葉のもと、多くのライダーが渡道していた。 7月15日午前4時、当時住んでいた■山を出発し一路青森に向かった。それまで晴天の日が続いていたが、梅雨も明けぬ頃で冷たい雨が降りしきる夜明け前だった。午後には雨は止んだがそれまでの疲労か青森行きを断念し、途中の野辺地でフェリーに乗る事にした。フェリーは小さく殆どトラックばかりで乗客は私達のみであった。初めての北海道、本来ならば弾む心であるはずなのに睡眠不足と疲労のためか函館まで寝て過ごした。百万ドルの夜景の函館、しかし私達の眼中にはその景色は入らなかった。歌に言う“はるばる来たぜ、函館”、けれども夜遅く着いた私達にはその余裕はなく食事と風呂、寝場所を求める事が先決だった。その夜は取り敢えず海辺で車中泊する事にした。そこは石川啄木公園だったらしい。 北海道の夜明けは早く、午前4時には空が明るくなりかけていた。北海道初日、しかし鉛色の空が続き、肌寒かった。その日は大沼公園、洞爺湖、地球岬、登別を経て支笏湖でキャンプをした。テントを持っての移動だったが、結局キャンプはこの日のみであった。  翌日、日曜日のせいか襟裳岬に向かう道路は込んでおり予想よりだいぶ遅れて到着した。その後、旧広尾線に沿って帯広へと向かった。この日は私が出発前に知った“カニの家”という無料宿にお世話になる事にした。これがあの参納マスターとの出会いだった。この日カニの家に寄ったことは、以後における私の北海道での旅の始まりの第一歩であった。旅人が多く集うカニの家、そこで私達は数人から旅の情報を得る事が出来た。 その日の朝は写真撮影会から始まった。思いの他気温が上がらなかった為に出発を遅らせて富良野に向かった。それでも霧の狩勝峠を越えるとそこは夏の北海道が待っていた。そこで前日情報を多く与えてくれた人と再び会い、この人のバイクのすり減ったタイヤの交換をする間に一緒に食事をする事にした。この人とはカニの家で一番古い知り合いとなった。この人とは時期であったラベンダーを見た後分かれ、十勝岳、天人峡を周り旭川に行った。 一晩明け、カニの家での事が頭から離れず層雲峡から糠平湖、然別湖を経て帯広に戻った。そして再びカニの家に宿泊した。  2度目のカニの家からの出発、しかし最初の出発と比べ味もそっけもないものであった。 天気は依然として悪い。しかし私達は道内一周をすべく道東、道北方面に向かって行った。  道内一周の途中、思い掛けぬ再会があった。和琴半島、野寒布岬ではカニの家で知り合った者と、留萌の喫茶店では根室の宿で会った人が偶然にもそこのお馴染みであった。留萌で友と別れた後、旭川に向かった。和琴の宿ではカニの家で会った者と会い、その時居た者とは中標津の宿で、オンネトー湯の滝では旭川の宿で知り合った大阪の2人連れと再会した。  旅の終わりに選んだのがカニの家だった。1泊のみで小樽に向かうつもりだったが、雨のために出発を延期する事二回、周りの人達に薦められ連泊街道を歩み始めた。これが所謂“カニ地獄”の始まりであり、私の旅の意識を形成した始まりでもあった。  結局帯広には2週間程いたが、何処へ行ったという事もなく、また何をしていたという事もなく何気なく過ごした。ただ、昼には“ヘルパーさん”と呼ばれる人に誘われ帯広駅ビルにあった磯勝という店に500円バイキングを食べに行っていたことを記憶している。 私はカニの家を去る前、越冬をすると言う宿泊者代表と翌年再び会う約束をして別れた。


 翌年私は夏休みになると同時に北に向かった。単独で始めての北への経路は、大間−函館を選択した。大間のターミナルではバイクが数台あり、その中の5〜6人と知り合いとなった。積丹半島を回り一路帯広に向けてバイクを走らせた。カニの家に着くなり昨年親交の厚かった宿泊者代表が私を迎え入れてくれた。そこには昨年顔を合わせた事ある者と、私が居た時期とは別の時期にいたという女の子とその子に連れられてきた男が居た。この男とは後にこの年知り合った連中の中で一番親交が厚くなった。そして、遅くなってカニの家で一番古い知り合いがJRで帰ってきた。私達は傘をさして遅くまで酒を酌み交わした。  翌日、例の如く十勝特有の天気で私は出発を見合わせた。そして天候の快復を待って釧路に出かけた。カニの家に戻ると、そこには昨年一緒によく遊んだ女の子が到着していた。 私は再び道内一周の旅路に発った。私は宗谷岬で偶然にも同じフェリーで上陸した者と会い、和琴半島まで一緒に走った。その後私は知床半島、根室半島を回り帯広へと戻った。 昨年と同様に走らぬ日が続いたが、数日後、交通安全の一貫として白バイを交えたパレードがあった。このイベントは冗談まじりで言った言葉がきっかけとなったようだ。 帯広の盆祭である平原祭では、カニの家の連中はサバイバルゲームにて商品あさりをし、コンポまで獲得した。盆踊りではみんな羽目を外して暴れまくり、踊りの最中に絡む者、一般市民と野球拳をして脱がせる者、生まれたままの姿でカニの家に来る者が出没した。  私も帰る時期が近くなり、カニの家がその場所にあるのはその年限りであるという事でファイナルに帰ってくるよう宿泊者代表に薦められ、カニの家を後にした。  私が宿泊者代表に言われるがままにファイナルに向けて出発したのは9月17日の6時45分。前日に出した手紙とどちらが先に着くかの競争だった。出発した30分後には寒さにふるえながら北海道の寒さを想像し、出発した事を後悔した。フェリ−埠頭に着いたのが9時45分。11時30分であった出航が9月から10時30分に変更されていて危うく乗り遅れるところだった。  フェリーは、“はまなす国体”の影響でほぼ満員であり、幸か不幸か私達ライダーの一部はレストランのバイトをする機会を得た。  そして雨の小樽に着き、雨がやむのを待つべく埠頭で休んだ。しかし、やむ気配がないので出発。そしてカニの家に着くと、何と夏からいた連泊者には合い言葉である“退場”と言って迎えられた。暫く後、私からの手紙が着いた。案の錠手紙より先に着いたのだった。カニの家はあの場所で、テント形式では今年が最後だと言う話は変更となっていた。  噂に聞いたファイナルはアブサンの乾杯で始まり、宿泊者代表と2人で他のメンバーが寝静まるまでいびきを聞きながら最後まで酒を飲んでいた。  カニの家をたたんだ後、私はマスターと宿泊者代表と食事をし、宿泊者代表に誘われるがまま然別峡キャンプ場に行った。バイクが走れぬ状態になったが仲間のおかげで帰れるようになった。そして殺伐として何もないカニの家の跡地に寄って北海道を後にした。


翌年私は夏休みになるとすぐバイクを北に向けて走らせた。北に向かう途中バイクの調子がはっきりせず旅の危険を感じた。上陸した函館の街は港祭で過去とは違った装いであった。前年同様積丹半島を回り一路帯広に向けてバイクを走らせた。カニの家で私を待っていた物は知っている顔ぶれがないという現実だった。それでも顔見知りは2〜3人おり、夜には一昨年昼食の500円バイキングによく連れだって行った往年の主が札幌ナンバーのバイクに乗って帰ってきた。この人の談によれば周りのバイク乗りに刺激されて免許を取ったと言う。 翌日私は例の如くカニの家から抜け出せぬまま帯広郊外に出かけ、岩内仙峡を通過してカニの家に戻った。途中バイクの調子が思わしくない事が判明した。 私は道東への紀行を楽しみにして道内一周の旅路についた。途中バイクの調子の悪い事もあって台風の到来で和事半島から帯広へと道東カットで戻った。そして平原祭後に再び道東に向かって走れる機会を待つ事にした。  とある日、財布をなくした事が元でカニの家にいる事となった者がある男と酒を飲んでいる最中にカニの家の注意書きを盗まれる事件が発生した。それまで私は寝ていたが、この騒ぎで起き出し近所を自転車で走って注意書きを捜したが、結局見つからずじまいであった。  その年は雨の多い年であり、雨天炊事場をブルーシートで建設した。そして“リゾ−トinカニの家”ということで雨の日も外で過ごし、100万ドルの休日とさえ言っていた。 平原祭の近くになっても天候不順の日々は続いていたが、不思議にも盆踊りの直前になると雨はやみ盆踊り大会は敢行された。盛り上がりは前年と比較して全体としては欠けたが、前年とは違ったパワーがあった。 平原祭が終わり、カニの家には函館から一人の女の子が訪れた。私達はその後、この女の子に振り回される結果となるのである。数日後、私達は岩内仙峡のマスターの別荘でジンギスカンパーティを開いた。そして、帰りにマスターに会いに来たOCTVのカメラマンに私達の走らすバイクが撮影され、後にそれが毎晩放映されていたという声を聞いた。  翌日の夕食は、グリュック王国で働く女の子を交えての餃子パーティであった。この子達は自転車を修理してあげたことが縁で誘ったということであった。 この日はある宿泊者宛てにピザが届いた。折しもこの宿泊者の誕生日であり、OCTVのカメラマン氏からの差し入れであった。皆で分ける為に包丁を入れると何かがたれてきた。何やら箱の底に入っていたスープに気付かずに切ってしまったようである。 函館の女の子は帰る前日の夜、近くにいる者に一緒に函館まで走る事を促していたが空振りに終わった。私は拒否の一手であったが、結果的に前年私に頭が上がらなくなった男に拝み倒され寄る事となった。彼女はある事をマスターと話しており偶然そこに居合わせた私はマスターの言ったある事で何とも不思議な事に指切りをさせられてしまった。この事にはマスターも相当手を焼いていた。その後彼女はカニの家の宿泊者の一部を誘って函館いか踊りの伝授を始めた。この事がきっかけで彼女にはあるあだ名が付く事となったのである。  帯広にも秋風が吹くようになり私がカニの家を離れる前夜、私は最後までカニの家から去る日を言わぬつもりであったが、偶然にも明かす事となってしまいマスタ−達と別れの杯を交わす羽目となった。その時の情景が昨年のファイナルとオ−バ−ラップし、その夜が私にとってのその年のファイナルとなった。そして私はカニの家を後にした。


 翌年、私は前年に3人の道内に住む者と知り合えた事もあって季節外れの帯広駅裏を見るためにゴールデンウィークに北に向かった。その3人を頼って行ったはずだが、現実は私の浅はかな期待通りにはいかなかった。しかし、最終的にはその内の二人とは会え、松前へ桜見物にも行く事が出来た。その日松前城ではロケが敢行されていた。  その年最初のツ−リングに選んだ北海道。北海道の春を感じてみたかったし、何よりも季節外れの帯広駅裏を見たくて。今の季節あの場所はカニの家の予定地であるはずなのに、行ってみるとどうしても跡地にしか感じられなかった。季節は春、なのに北海道に渡ると秋にしか感じられなかった。果たしてこれは気分的な問題だったのだろうか、そうです多分私の心の片隅に昨年の未練があり、また一昨年ファイナルに向けて渡道した時の事が思い出させたのだろう。帯広へ行きマスタ−と会い、あの場所にテントを張ったらどうという奬めで駅裏に行った。一夜明け辺りを見渡すとしっかり昨年のテントの後が残っていて片付けてから一冬越したなどと言う事は考えられなかった。また、敷地にはたんぽぽが咲いており、一角には昨年使用していた物の残骸があり、実際には片付けはしていないのにあたかも片付けをした気分となった。そしてそこで私が昨年落とした物も発見した。そう、まるでついこの間片付けたような気がしてたまらなかった。この様に過ぎ去った秋の様子をうかがえるという事は、そこには厳しい冬があった事を物語っているのだろう。  開店した長崎屋では偶然にも500円バイキングによく連れだって行った古参者を発見した。  夏となり、その年2度目の北海道は前年までと違ったカニの家が待っていた。管理人さんが代わったので行かないほうがいいという声があったが、私は気にも留めず帯広に向かってバイクを走らせた。途中昨年親交を深くした者を抜いたが、その時は気付かずにいた。 帯広に着き、先ずマスターに会ってからカニの家に向かった。カニの家には私が途中で抜いた者が着いていた。その日はマスターに誘われてマスター宅でジンギスカンをした。 翌日私と親交を深くした者は昨年からの彼の懸案であるサイロ登りに出掛けたが、彼はやはり登らなかった。その晩、一番古い知り合いがカニの家に戻ってきた。 その翌日私は話の種に道東林道に出掛けた。この日は平原祭の盆踊りがあったが、まるでお通夜の如く過ごした。しかし翌日は前日とは一変して盛り上がり、結局終わってみればカニの家始まって以来の賞を獲得していた。   私は例年とは異なり僅かの期間居ただけでカニの家から去った。  その年の秋、私は三度渡道する機会を得た。この時初めてJRでの旅となった。そして初日、一昨年一番親交が厚くなった者に薦められた旭川のライダーハウスを訪れてみた。そこでは偶然にも会ったことはないが噂で聞いていたカニの家の宿泊者と接する事が出来た。 数日後、私はその後に屈足の地で民宿を開業するカニの家宿泊者にお世話になるべく新得に向かった。予定より遅くなったが、新得駅では平原祭りでの定番である”ギンギンギラギラ”の歌で熱烈歓迎をされた。そこには数日前旭川のライダーハウスであった者の顔もあった。 数日間居候諸氏と車で近辺を回ったが、ヌプン温泉に行く際、ある人物の”温泉堀りしたい”という言葉に応えた者が近所にスコップを借りに行き、何に使うのかという問いに”温泉を堀り当てようと思って”と答えたのは傑作だった。この応答は後で近所の評判になったらしい。  そして私は本来の目的以外の事で楽しんだ後、北海道を後にした。


 翌年、私は前年と同様に北海道の春を感じてみたくなり新潟に向かって走り出した。しかしその途中、季節外れの降雪は峠を越えようとする私の行く手を遮った。私は後数キロで峠の頂上という所でスリップを喫し余儀なくターンをさせられ高速道路を走って行く事にした。余裕を見計らって出発した私は予定のフェリーに乗り、小樽に上陸した。 私は季節外れの北海道を北上すべく日本海に沿って留萌に向かった。晴れた夏の日本海はとてもきれいだが、その時はどんよりとした曇り空のせいかとても寒々していた。私は留萌まで走ると寒さに耐えられなくなり、時間調整を兼ねて駅で休憩した。その後、スタンドに給油に寄ると内地ナンバーという事で、近所のおばさんが話し掛けて来て食料も頂いた。  私は紋別に抜けるべく旭川を抜けて上川に向かったが、雪が降り始め通行が困難と判断し旭川方面に戻った。以降天気は晴、曇り、雨、雪を繰り返し、私は初めて内陸を北上した。 宗谷岬に着いたのは夕方であった。そこは夏の曇り空の寒い日と変わりない表情があった。ただ気温計が−1゚Cを表示しており、この事だけが夏と違うと感じたのみであった。氷点下を走ってきた私には、最北流氷館の中に入るとその冷気は小気味良く感じられた。宿のあてなく北上してきた私をとあるライダーハウスは快く受けとめてくれた。夕食を済ませた後、冷めた体を暖めるべく稚内市民温泉センターに出掛けた。 翌日の稚内は晴れ渡った。どういう訳か私の稚内入りは決まって天気が悪く、翌日には晴れる。ライダーハウスで朝食を採りながら経営者と会話をし、稚内を後にした。 留萌の喫茶店に寄るべく日本海オロロラインを南下したが、天気は良いのに利尻島ははずかしがってその姿を見せなかった。目的地である喫茶店は休業で昼食が採れず、私は急いで富良野に向かった。そして私は新得に向かって走り出した。生憎、新得に住むカニの家関係者は留守でその夜は帯広の懐かしの公園にテントを張って野宿した。 翌日、私は帯広市内見物をした後、菅野温泉で疲れた体を癒してから新得に向かった。そこで友人一家は私を暖かく迎え入れてくれ、私は一夜を過ごし小樽に向かった。その日は風が強く、札幌に向かう道は混雑が激しかった。そして私は北海道を後にした。 待っていた夏の北海道には内地を700km走るというハードスケジュールであった。走り出して防寒の準備を忘れた事に気が付いたがそれを取りに戻る時間的余裕はなかった。この防寒対策の不備が後にこの旅を象徴する事になると予想してはいたが、それが現実となるとは思いもしなかった。函館には台風と共に上陸した。函館朝市で用を済ませた後、函館に用のない私は降りしきる雨の中帯広に向かった。思いのほか雨足は強く、帯広に近くなるに連れ雨は強くなり、坂道では雨が流れている程だった。しかし日勝峠を越える頃になると雨は小降りとなっていた。この雨のために私はその後3日間棒に振る事となるのである。  カニの家に着くと顔見知りが数人居て暖かく迎え入れてくれた。 翌日は晴れ、穏やかな日となった。しかし体調は悪く、一日函館で雨宿りしてから帯広に向かった方が良かったと悔やんだ。その後2日肌寒い日が続き、防寒対策を忘れた私は寒さに震えて過ごした。しかしそれでも周りの人々は暖かかった。風邪による体調の悪さと寒さから何処にも行く気になれなかった。結局私がこの年行った所と言えば、帯広周辺と5年越しに実現したトムラウシ温泉のみだった。岩内仙峡には行かずじまいだった。  帯広には夏がなかったとマスターとの会話を残して、平原祭の始まった帯広を後にした。